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親の忍耐力を試すな

2026-05-29

子の 60 点のテストに焦った夜、イライラの正体を考えてみたら、結局それは「子が思い通りに動かない」ことへの自分の側の問題でした。結果は子のもの、私の責任は過程だけ。子を一人の人間として認めるのは、子のためというより、親の精神を守るために要る話だと思っています。

子のテストが返ってきた。

60 点。

「もうちょっとやれたんじゃない?」が、口から出かけて、止めた。

止めたのはエラいんじゃなくて、止めても 0.5 秒くらいの間、頭の中では確実にそう思っていた。点数を見て、勝手に評価して、勝手に焦って、勝手に何か言いそうになる。

これ、なんやろう、と思って。

イライラの正体は、思い通りにならないこと

少し考えて、たどり着いたのはわりと身も蓋もない結論で。

私がイライラするのは、子が思い通りに動かんから、だった。

朝起きてほしい時間に起きない。出してほしい点数を出さない。やっといてほしい宿題をやらない。聞いてほしいタイミングで話を聞かない。

そりゃイライラする。毎日精神削れるわ、と思う。「親の忍耐力を試すな」と心の中で叫んでいる日もある。

でも、よくよく考えると、これは 子の問題じゃなくて、私の側の問題 やったりする。私が勝手に「こうあってほしい」を握っていて、その通りにならないから、私が勝手にイラついている。

仕事の世界でいうと、結果責任とプロセス責任に分かれてる

ちょっと違う角度で考え直したくて、業務の話を持ち出してみた。

私は会社員もやってるので、責任分担というやつをよく目にする。

責任はだいたい 2 種類に分かれる。

経営層は結果責任、マネージャーはどっちも、現場メンバーはプロセス責任の比重が大きい、みたいな配分になっていることが多い。

これ、親にも当てはまるなと、ある夜思った。

親は、たぶん、プロセス責任の側

子のテストの点数。受験の合否。就職先。最終的にどう生きるか。幸せかどうか。健康かどうか。

これらは全部、子の結果

私が責任を取ろうとしても取れない。代わりに点を取れないし、代わりに就職もできないし、代わりに幸せにもなれない。

じゃあ、親に持てる責任は何か。たぶん プロセス責任 のほう。

うちで言うと、こんなあたり:

これくらい。「ちゃんとやれたか」は親の責任、「結果がどうだったか」は子の責任。

仕事で言うと、ちゃんと仕様書を書いてリスクを伝えてレビューを依頼した、ここまでがエンジニアの責任で、最終的にユーザーがどう使うかはユーザー側、みたいな感じ。

そもそも、一生は面倒みれない

もう 1 つ、外せない制約として、親が子の代わりにやれる期間は、長くて 20 年くらい という話がある。

うちの長男はあと 14 年くらい。次男はあと 16 年くらい。22 歳まで見たとして、それで終わり。長く見ても 25 歳まで。

そこから先、子の人生は子のもの。私がどう焦っても、もう関与できない。順番でいくと、私のほうが先にいなくなる側でもある。だいたいの場合、親は子より早めに退場する。「ずっと見守ってあげる」みたいな約束は、物理的にできない。

ここを忘れてると、たぶん厄介なことになる。子が 30 歳になっても 40 歳になっても、親が結果を背負い続けることになる。それは本人にも親にもよくない、というのは、自分の周りを見てもなんとなく分かる。

「一生面倒みれない」って書くとちょっと冷たく聞こえるけど、実際には 冷たさじゃなくて、子の自立を信じる っていう話だと、私は読んでる。代わりにやれないことを、代わりにやろうとしない。

一人の人間として認める ── 自分の精神安定のために

このあたりから、もう一段ぐっと踏み込んだ話になる。

育児書とかでよく言われる「子供を一人の人間として尊重しましょう」。あれ、子のために書いてあるみたいな顔をしてるけど、私は最近、あれは親のために必要な話 だと思っている。

順番はこう。

子を「自分の思い通りに動く存在」だと思っているうちは、思い通りに動かないたびに、毎回イラつくことになる。さっきの「親の忍耐力を試すな」が毎日続く。これはもう、構造的に削られる。私の精神はもたない。

一方で、子を 一人の人間 として見ると、話は変わる。

一人の人間は、私の思い通りには動かない。当たり前。同僚も上司もそうやし、夫もそう、私自身ですら自分の思い通りには動かない。だから、子が思い通りに動かないのも、まあそういうもんやな、で済む。済むというか、済ませないとしんどい。

つまり「一人の人間として認める」って、子のためというより、そう思わないと親の精神が崩れるから、そう思うしかない、という話だと思っている。聞こえはきれいだけど、内実はわりと切実な自己防衛。

「やらない」も、その人の選択

一人の人間として認めると、もう一個めんどくさいことが起きる。

宿題をやらない、という選択も、その人 (= 子) のものになってしまう。

これは正直しんどい。横で見てて、明日先生に怒られるであろうことが分かっていて、なんで今やらんのと言いたくなる。実際よく言ってる。

でも、一人の人間として認めるなら、「やらない」という選択を尊重する、というのが筋ではある。私の同僚が今日タスクをやらないと決めたとき、私がそれにキレるのはちょっと違う、というのと、構造としては同じ。

もちろんそんなにきれいに割り切れるわけでもなくて、「やらないことの結果も、子が引き受けるしかない」と頭で思いつつ、口は普通に「やりや」と言っている。そう思わないとやってられない、と思いつつ、実際にはやれていない。それくらいの距離感が、今の私のリアルではある。

「結果を見て焦る」のは、責任を勝手に背負ってる

話を 60 点に戻すと。

あの瞬間に焦るのは、私の中で「結果を私が背負ってる」になってるから。

切り分けると:

そう思えると、点数を見たときの「もっとやれたんじゃない?」が、まあ少し減る。減るだけで、消えはしないけれど。

理屈は分かってる。それでも次のテストでまた焦るんやろうな、と思いつつ。

自分にチェックするのは、過程だけにしてる

最近、自分の中で確認するのは過程の話だけにしてる。

これにマルかバツがつくのは、私の責任。

テストの点数や受験結果にマルバツをつけるのは、たぶん越権。

そのレベルで、まあ、ええんちゃうかな、と思ってる。

結果は、子のもの。

と思わないとやってられない、というのが、本当のところ。