子の 60 点のテストに焦った夜、イライラの正体を考えてみたら、結局それは「子が思い通りに動かない」ことへの自分の側の問題でした。結果は子のもの、私の責任は過程だけ。子を一人の人間として認めるのは、子のためというより、親の精神を守るために要る話だと思っています。
子のテストが返ってきた。
60 点。
「もうちょっとやれたんじゃない?」が、口から出かけて、止めた。
止めたのはエラいんじゃなくて、止めても 0.5 秒くらいの間、頭の中では確実にそう思っていた。点数を見て、勝手に評価して、勝手に焦って、勝手に何か言いそうになる。
これ、なんやろう、と思って。
少し考えて、たどり着いたのはわりと身も蓋もない結論で。
私がイライラするのは、子が思い通りに動かんから、だった。
朝起きてほしい時間に起きない。出してほしい点数を出さない。やっといてほしい宿題をやらない。聞いてほしいタイミングで話を聞かない。
そりゃイライラする。毎日精神削れるわ、と思う。「親の忍耐力を試すな」と心の中で叫んでいる日もある。
でも、よくよく考えると、これは 子の問題じゃなくて、私の側の問題 やったりする。私が勝手に「こうあってほしい」を握っていて、その通りにならないから、私が勝手にイラついている。
ちょっと違う角度で考え直したくて、業務の話を持ち出してみた。
私は会社員もやってるので、責任分担というやつをよく目にする。
責任はだいたい 2 種類に分かれる。
経営層は結果責任、マネージャーはどっちも、現場メンバーはプロセス責任の比重が大きい、みたいな配分になっていることが多い。
これ、親にも当てはまるなと、ある夜思った。
子のテストの点数。受験の合否。就職先。最終的にどう生きるか。幸せかどうか。健康かどうか。
これらは全部、子の結果。
私が責任を取ろうとしても取れない。代わりに点を取れないし、代わりに就職もできないし、代わりに幸せにもなれない。
じゃあ、親に持てる責任は何か。たぶん プロセス責任 のほう。
うちで言うと、こんなあたり:
これくらい。「ちゃんとやれたか」は親の責任、「結果がどうだったか」は子の責任。
仕事で言うと、ちゃんと仕様書を書いてリスクを伝えてレビューを依頼した、ここまでがエンジニアの責任で、最終的にユーザーがどう使うかはユーザー側、みたいな感じ。
もう 1 つ、外せない制約として、親が子の代わりにやれる期間は、長くて 20 年くらい という話がある。
うちの長男はあと 14 年くらい。次男はあと 16 年くらい。22 歳まで見たとして、それで終わり。長く見ても 25 歳まで。
そこから先、子の人生は子のもの。私がどう焦っても、もう関与できない。順番でいくと、私のほうが先にいなくなる側でもある。だいたいの場合、親は子より早めに退場する。「ずっと見守ってあげる」みたいな約束は、物理的にできない。
ここを忘れてると、たぶん厄介なことになる。子が 30 歳になっても 40 歳になっても、親が結果を背負い続けることになる。それは本人にも親にもよくない、というのは、自分の周りを見てもなんとなく分かる。
「一生面倒みれない」って書くとちょっと冷たく聞こえるけど、実際には 冷たさじゃなくて、子の自立を信じる っていう話だと、私は読んでる。代わりにやれないことを、代わりにやろうとしない。
このあたりから、もう一段ぐっと踏み込んだ話になる。
育児書とかでよく言われる「子供を一人の人間として尊重しましょう」。あれ、子のために書いてあるみたいな顔をしてるけど、私は最近、あれは親のために必要な話 だと思っている。
順番はこう。
子を「自分の思い通りに動く存在」だと思っているうちは、思い通りに動かないたびに、毎回イラつくことになる。さっきの「親の忍耐力を試すな」が毎日続く。これはもう、構造的に削られる。私の精神はもたない。
一方で、子を 一人の人間 として見ると、話は変わる。
一人の人間は、私の思い通りには動かない。当たり前。同僚も上司もそうやし、夫もそう、私自身ですら自分の思い通りには動かない。だから、子が思い通りに動かないのも、まあそういうもんやな、で済む。済むというか、済ませないとしんどい。
つまり「一人の人間として認める」って、子のためというより、そう思わないと親の精神が崩れるから、そう思うしかない、という話だと思っている。聞こえはきれいだけど、内実はわりと切実な自己防衛。
一人の人間として認めると、もう一個めんどくさいことが起きる。
宿題をやらない、という選択も、その人 (= 子) のものになってしまう。
これは正直しんどい。横で見てて、明日先生に怒られるであろうことが分かっていて、なんで今やらんのと言いたくなる。実際よく言ってる。
でも、一人の人間として認めるなら、「やらない」という選択を尊重する、というのが筋ではある。私の同僚が今日タスクをやらないと決めたとき、私がそれにキレるのはちょっと違う、というのと、構造としては同じ。
もちろんそんなにきれいに割り切れるわけでもなくて、「やらないことの結果も、子が引き受けるしかない」と頭で思いつつ、口は普通に「やりや」と言っている。そう思わないとやってられない、と思いつつ、実際にはやれていない。それくらいの距離感が、今の私のリアルではある。
話を 60 点に戻すと。
あの瞬間に焦るのは、私の中で「結果を私が背負ってる」になってるから。
切り分けると:
そう思えると、点数を見たときの「もっとやれたんじゃない?」が、まあ少し減る。減るだけで、消えはしないけれど。
理屈は分かってる。それでも次のテストでまた焦るんやろうな、と思いつつ。
最近、自分の中で確認するのは過程の話だけにしてる。
これにマルかバツがつくのは、私の責任。
テストの点数や受験結果にマルバツをつけるのは、たぶん越権。
そのレベルで、まあ、ええんちゃうかな、と思ってる。
結果は、子のもの。
と思わないとやってられない、というのが、本当のところ。